ペリーの来航から10年後の文久3年(1863年)、開港間もない横浜に英国人ウイリアム・カーチスが上陸しました。横浜山手に大規模な農園をつくり、居留地に住む外国人向けに西洋野菜を販売し、成功しています。
さらに彼は、明治7年(1874年)、鎌倉郡下柏尾村に開いた観光ホテルの裏に牧場をつくり、家畜を育て、ハム、ベーコン、牛乳、バターの製造を始めました。カーチスはハムの製法を秘密にし、日本人の工場への立ち入りを禁じていましたが、明治17年(1884年)、地震による工場の出火を村人が消火した恩に報いて、ついに秘伝の製法を村人に伝授。後にカーチスは日本を去りましたが、鎌倉の地には、ハムの製造者、技術者が確実に育っていきました。製造されたハムは鎌倉、箱根、横浜の一流ホテルに卸され、宿泊客の評判となり、発祥の地名から『鎌倉ハム』として広まっています。
発売当初のハムは、冬場の低温時に加工したものを夏場に出荷する季節商品でした。
富岡周蔵は、これを何とか年中出荷できないものかと考え、横浜の製氷会社の冷蔵庫を使ってハム製造をはじめました。しかし、遠い冷蔵庫まで運んでいくのは効率も悪く、鮮度も保ちにくいため、ついに大正10年(1921年)、自社工場内に冷蔵庫棟を建設。ハムづくりの先進国欧米の情報や進んだ技術を取り入れ、時代に先駆けて冷蔵庫利用に踏み切ったのです。電力利用の近代工場が鎌倉に出現したことは、電気がまだ一般に利用されていない当時、まさに「驚異」としかいいようのない出来事だったと伝えられています。
また同年、ロースハムを発売。このロースハムはヒット商品となり、贅沢品であったハムは、やがて全国の食卓へと広がっていきます。「鎌倉ハム富岡商会」は、このロースハムを基盤にして、その後の事業を大きく展開していきます。
大正12年(1923年)9月、関東大震災が起こり、他の工場は大きな打撃を受けました。しかし、冷蔵庫の被害を逃れた「鎌倉ハム富岡商会」は、この災難を近代化への絶好のチャンスと考え、最新の設備を備えた生産工場を建設。
この工場は、設備と衛生面において、全国でも屈指の工場として注目を集め、品質面でも変わらぬ高い評価を得ていました。
当時の「鎌倉ハム富岡商会」の評価を知るエピソードとして、昭和4年(1929年)に来日した「ツェッペリン号」の機内食として帝国ホテルが提供したメニューには“Kamakura Ham”の一品が記されています。
昭和になってからの「鎌倉ハム富岡商会」は、スライスドハム、ハムライスの素、チキンライスの素、ソーセージなど缶詰製造にも力を注ぎました。そして昭和13年(1938年)にはボンレスハムの製造を開始しました。
その後、成型器を使ったアイディア商品として角ボンレスハムを開発するなど、その製品アイテムは充実の一途をたどっていきました。